歴史

山 四季イロ深ク、渓流 明日ヲ注グ。

京の薫りが吹き抜けた江戸時代、高山の歴史と文化が彩りはじめる―。
東は乗鞍岳、南に御嶽山、西に白山、北には立山。
飛騨高山はその山々に包み込まれるように位置しています。

元々は“安川村”という小さな村だった山里高山に
江戸のはじめに大きな旋風が巻き起こります。

織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣であった金森長近は、
関ヶ原の戦いで功績を収め初代高山藩主となりました。

長近は京都に習って市街地を碁盤目状に作り、
東山に寺を集め、侍屋敷・職人町を作り、
現在の町の原形を成しました。
かつて山里だった高山の町並みは大きな変貌を遂げるのです。

元禄5年(1692年)金森氏は国替えとなり、飛騨は徳川幕府直轄の天領となり、
それ以来高山は、町人の町として栄えます。

そうして町衆文化が主となる高山文化が彩りはじめていったのです。

古キヲマモリ、良キヲホコル。

伝統深い日下部家と趣ある町家建築。

天領時代、日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。
嘉永5年には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。

当時の邸宅は明治8年の大火で類焼、
その4年後の明治12年(1879)に完成したのが、現在の建物です。

木の国飛騨の人々は元来建築技術に優れており、「飛騨の匠」と称されております。
その「飛騨の匠」は現在に至るまで数多くのすばらしい建築物を生み出してきました。

当家の棟梁〈とうりょう〉は当時の名工、川尻治助、
彼は自己の技量をこの家に傾注し、江戸時代の建築様式そのままの見事な住宅を造り上げたのです。

主家〈おもや〉は、切妻造り段違い二階建て、一部吹き抜けの総桧〈ひのき〉造り。
梁〈はり〉と束柱〈つかばしら〉の木組みの力強い構成、屋根の勾配〈こうばい〉はゆるく、軒〈のき〉の出は深い。

また家の正面表構えの出格子〈こうし〉、入格子、窓切りの変化、ベンガラに煤〈すす〉をまぜて、焦〈こげ〉茶色に塗った木部の仕上げ等、江戸時代高山の町家造りの特色を留めております。
他に土蔵二棟があります。

昭和41年、明治建築の民家として初めて国の重要文化財に指定され、
以後民芸館として一般に公開されております。

高山を、日下部を、歴史と文化を、
出来る限り多くの方に知って頂きたい、
その一心で私達は大切に大切に今日まで護り続けてきました。

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